川の流れのように

日々の小さな想いをつづります。

今年は柿の当たり年

 先日、ウチのダンナは共に仕事を、アルバイト程度にポツポツしていた方の家に

所用があって伺った際に、庭にたわわに実った柿を戴いて来た。

枝ごと折って下さったそうで、それを車の中に置き忘れて二日ほど経ってしまった。

車の中で熟してしまった二個は、私がスプーンで掬って食べ

柔らかい柿が嫌いな夫は、俺は要らない、と。

美味しかったよ、と報告するのに一個は食べなさいよと、皮を剥いてやった。

甘くて美味しい柿でした。

 

その知人は、あと少しで80歳になろうとしている。

一昨年くらい前から、仕事がきつそうで、

フリーな仕事なので「今日はもう帰ろう。」という事が多かったそうで、

殊に夏の暑さ、冬の寒さが体に堪えて、若い頃の様に一晩寝れば回復、と言う訳には行かなくなっていた。

 

特に気合が入らなくなる。

ダンナはまだ実感がないようだが、私には解る。

 

その方から見れば、まだ10歳以上若いけれど「気合」という点でよく分かる。

私にもダンナを通じて、有難いことに資格を生かして一緒に仕事を、と

オファーがあったけれど、ダンナは乗り気でしたが、

暫く考えて、申し訳ないけれどお断りしたのです。

 

責任ある事が重くて、気が全く乗らなくて自分でも参った!

収入が増えるのは魅力ですが

無いなら無いで、贅沢をせずやって行こうと思っている。

 

晩年の父が、甥の結婚式には出られたのに、その2年後の

我が家の娘の結婚式には、もう人前に出るのが嫌だと出なかった。

娘はちょっとだけプンスカしていたけれど、

今振り返ると、老いというのはこういう事かと納得している。

 

その2年後に父はあの世へ旅立った。

法事や葬儀、お祝い事で何十人もいるような処へ出席するのは出来なくとも、

お天気が良いからと、100キロ以上も軽を転がして

ドライブして来てしまう元気はあったのに、、、、、

ちょっと綺麗な、娘に近い年頃の女性を誘って

日帰り温泉へ行ったりは出来たのに、、、、ww

 

「べき事」から遠ざかって行った。

 

我儘では無くて、老いというものは「べき」ことが億劫になり

じわじわと、それが少しづつ進んで

この世への執着が薄れていくことなのだろうか。

 

この世の真ん中に居続ける事が重荷になり、

でも勝手ながら、まだ遊ぶ元気は少しだけど残っている。

 

本当はそんな時間を大切にできれば最高なのだろう。

少しづつ世界の真ん中から引いて行って、自ら距離を置き

寂しさはあまり感じない。

 

楽しいことが出来れば、満点じゃなくたってそれで満足なのだ。

贅沢だけが幸福だとは限らない。

 

そんな老いの極意が少し分かって来た積りだ。

 

かの知人が、仕事はきついと言いながら、家庭菜園(と言っても広いので本格的です)

をしていることを、ダンナは不思議そうに「土と格闘する方が余程きついと思うのだけれど、、、、。」と言うのですが、二人でしていた仕事は、主に交渉事でしたから、真夏もきちんとスーツを着て、と、そんなきつさがもう重たくて嫌になったのだろうと私はダンナに言ったけれど、

ああそうか!

ダンナの家系は、長生きの系図なので、

ゆっくり歳をとる親や祖父母だったのです。

だから、まだ自分の年齢をそのまま受け止めていない可能性はあるのです。

彼の中では人よりゆっくりと老いがやって来るのです。

それはそれで私には有難い事です。

身体の弱い私のお世話をして貰える、、、、はずです。

 

一個の柿から話が長くなりました (>_<)