川の流れのように

日々の小さな想いをつづります。

彼女が明るい訳

うちのダンナの元同僚は、60の坂を越えられず、59歳の若さで逝ってしまった。

生きていれば、74歳である。

 

家族ぐるみで良くしてもらい、奥さんもまた同じ会社で働いていたので、

ダンナとあちらのご夫婦で、同僚の思い出話や会社での出来事など

あれやこれや、共通の話題で良く盛り上がっていた。

 

あんなに早く逝ってしまうなんて、一体誰が想像し得ただろう。

 

お母さんにも良くして頂いた。

べたべた可愛がるわけでは無いけれど、

一生涯をかけて仕事に邁進していた必殺仕事人のお母さんは、

さりげなく仕事人間の女性の数人を応援してくれ、

その中の一人に私が入っていたらしい。

 

らしい、と言うのは亡くなってから、お嫁さんであるM子さんからそう聞いた。

聞いた瞬間、見守ってくれていたのだなと、感謝の念が沸き上がった。

 

何か贈答品が届く時、宛名がダンナではなく私宛だった際に、

ダンナは一人息子である彼と仲が良かったのに、なぜ?と疑問に思ったらしく、

どうして宛名が俺の名前じゃないの?とブツブツ呟いていた。

 

真っ正直と言おうか、ただ単に口が悪いと言おうか、

私は、「ボスが誰だかお母さんは解ってんじゃないの?」とからかっていた。

 

この道70年という頃、お母さんは勲章を受勲した。

ダンナはお祝いの会を企画し、産婆であるお母さんが取り上げた

大勢の地元の議員さんも駆けつけて祝ってくれた。

あの人もこの人も、と賑やかな顔ぶれであった。

 

お母さんが取り上げたわけでは無かったが、

顔の広いお母さんは、選挙などでお付き合いがあったようで、

松野官房長官の顔もあった。

 

挨拶の言葉を述べるモーニング姿のダンナの隣に立っているだけだったが、

私も滅多に着ない色留袖を借りて、晴れの日のお母さんの為に正装したものだった。

 

お嫁さんのM子さんは明るくてお茶目で可愛らしい人。

先日、久し振りにダンナのスマホに彼女から電話があり、

相談があるとの事で二人して伺ってきた。

 

彼女の実家を売りたいとの事だった。

ご両親が亡くなられた後は空き家となっていた家も、だいぶ朽ちて来て

近所の人もハラハラしていたようで、気が気じゃなかったの、と。

綺麗に取り壊して更地になっているから、とのこと。

 

秋晴れの暑いくらいの日、ダンナと二人で実家の跡地へ行ってみた。

 

鴨川の道の駅、オーシャンパークは直ぐ近くだし、

景勝地として有名な仁右衛門島もすぐそこだ。

 

M子さんの実家跡地から30m位の所には、水の澄んだ綺麗な海が広がっている。

 

私は、彼女のおおらかさ、明るさはこの海が育んだのだと思った。

 

2階をリビングとキッチンにすれば、この海を眺めながら暮らしていける土地だ。

彼女に安心する様に電話して、ダンナは早く逝ってしまった友達とお母さんに

恩返しが出来れば本望だと思っている。

 

明るい彼女が、いつまでも明るく老いて行けますように

私も微力ながら出来ることをしようと思っているのです。