先日、江の島へ一緒に行った友人とは、50年超の長い付き合いになります。
こんなに長く続いたのは、ひとえに彼女の善き人柄によるところが大きいのです。
時に人に尽くし過ぎてしまう所があり、はたから見ていてハラハラすることもあるが
彼女の場合、人が困っているとか仕事が滞っている時など、
見てしまった以上、知ってしまった以上は知らんふりをするエネルギーと
自分が動いてしまうエネルギーを秤にかければ、
自分が動いてしまう方を選択する方が彼女自身スッキリするからなのだろう、と思っている。
はたはどう感じているか、それは人それぞれだ。
有難いと感じてくれる人も居れば、ひょっとしたら何も感じないで
彼女がしてくれることを、当たり前の事と感じる人も居るのだと思う。
亡き父が良く言っていた。
世の中は「盲千人、目明き千人。」と。
(上のフレーズは、現在では放送禁止用語であり、差別用語になる事は承知の上で昔の慣用句として使っており、蔑む他意など全くない事は了解して頂きたいと思います。)
要は、分かる人も居れば分からない人も居るのだと。
物事への理解や共感は全く持って人それぞれなのだと。
小さい頃からそう教えられてきた。
しかし、事の次第では、ある一定のラインが存在するし必要なことは確かなのだが。
まあ、前置きが長かったけれど彼女の近所に、娘達は海外で暮らしていて、
夫にも先立たれ、お婆さん一人で暮らしていた人に対し、
彼女は忙しい(自営業)仕事の合間に買い物に連れて行ってやることが良く有ったようだ。
たまに出かければ、おばあさんは銀行へ行き、ドラッグストアで薬やらあれこれ買い込み、スーパーで食料品を買い、と数時間は時間を取られる。
彼女の旦那様は、手伝いが居なくなると困るシーンもあり、帰って来ると「長い!」と文句を言うこともあったようだ。
ダンナの気持ちも分からなくはないのです、、、、
そうこうしている内に、おばあさんは亡くなり、
海外から娘さんが来て葬儀を行って、また風のように帰って行ったようだ。
残されたのは一匹の猫。
外猫となり、彼女は可哀想なその猫のため、餌と水を毎日やる様になり、
冬になれば暖かく過ごせるように、簡易の箱の中に古毛布を入れてやったりしていたようだ。
犬好きの彼女は、猫は目が怖いから嫌いと言っていたが、
懐いてくれると可愛いものだね、と言っていた。
そうして数年経ち、その猫も天寿を全うして亡くなり、
庭の隅に穴を掘り埋めて、お線香とキャットフードを供えたと聞いた。
そうして一~二年が過ぎた。
先日、海外にいる娘さん(私達より年上なので70台半ばだろうか、、、)が突然訪ねて来て、癌で余命幾許もない、、、、
もう、あの家を片付ける体力と気力は残っていないので
どうか、あの家を貰って下さい、と頭を下げられたのだそうだ。
子供は居ないので相続人は居ない。
彼女はどうしたら良いものかと、相談の電話をしてきた。
贈与税がどのくらいなのか、固定資産税納付書をコピーさせてもらい、
税理士に相談し、登記は司法書士に依頼して、是非貰った方が良いのでは?と言った。
今時、口をあんぐり開けて天を仰いでいても、
鳥の糞くらいしか入ってこないでしょ(笑)
誰が札束をねじ込んでくれますか?って。
少しお下品な例えですが、ホントにそう思います。
昨今、都会の土地は値上がりもありでしょうけれど、
田舎はどんどん下がっています。
価値から言えば、さほど大きくはないかもしれないけれど、使用するには色々ある。
ただ今手続き中のようですが、結婚をそろそろ考えている初孫君の名義にするようだ。
跡取りの初孫君一家が、直ぐ二軒先に居を構えてくれれば、目出度いではないですか。
「猫の恩返しだね。」と言う私に、彼女は至極真面目に
「だって、娘さんは私がお婆さんを買い物に連れて行っていた事や、
猫の面倒見ていたことは一切知らないのよ。」と言った。
「いやいや、だから娘さんではなく、空へ行った猫さんの気持ち。」と私。
(うちの猫さんです。)
彼女はアハハと笑い、そうか~~と笑いながら、納得したんだかしなかったんだか。
私の常の口癖である「神も仏も居ない。」をよく知っているから、
〇ちゃんったら、都合の良い時だけ天だの、神だのを持ち出すんだからと
さぞ呆れていたことでしょう。
あ、最近家のダンナも「山をあげるよ。」と言われたらしいけれど、
良く調べたら、ご近所さん数件がその山に排水を垂れ流していることが判明し、
丁重にお断りしたようです。
やはり普段の行いの問題、お人柄の問題かと、二つの事例からつくづく感じた次第です。
と、いう事は、、、、、、やはり神はいるのでしょうか。