10年に一度ほどの大寒波が来るというので
夕方、水道管にエアーパッキンを巻いてきた(ダンナが、、、)
それも下の店子が、水道メーターにタオルを巻いてくれている所に遭遇したからだけれど。
それで、一応やっておかなきゃってことになったのだ。
用心深い店子のお陰で、ポ~~っとしている我ら夫婦も
ちょっとは準備が出来たかな。
房総は暖かい地で、昼間に10度以下って滅多になかったように記憶する。
真冬のゴルフは歳をとってからはもうしないけれど、
10度あればラウンド出来るね~って、言っていたものだった。
もっとも子供の頃はまだ今より寒くて、登校時に道の端っこに霜柱が立っていて
友達とサクサク踏むのが面白くて、わざわざ端に行って霜柱を踏みながら登校したものだった。
もう何十年も霜柱を見ていない。
さて、最低気温が何度くらいの気温をあなたは体験しましたか?
そんな話ですが、ダンナの父親は第二次世界大戦時に満州を転戦し
終戦だというので、兵士達は汽車に詰め込まれて延々と何日も乗り続け、
あれ、港とは方向が違うと、ざわめき始めた頃、
誰かが騙された!と、、、
それでもまだ、ウラジオストックから日本へ帰るのかなと
淡い期待を持ったそうですが、それも儚く通り過ぎて行き、
着いた所がソ連、今のロシアだったと言う訳ですが、
それから4年、極寒の地で、ろくな食料も無く、過酷な労働をさせられ、
ガリガリに痩せて終戦から4年後に日本の地を踏めたという事です。
生きて帰れなかった人も多く、そんな過酷な経験を義父はあまり語りませんでした。
今になって、ダンナはもっときちんと話を聞いておけばよかった、、、、
しかし、オヤジは話したくなかったんだろうな、とも。
思い出したくない記憶って、心の奥深く仕舞いこんで
わざわざ引っ張り出したくないものなんでしょうね。
ポツリポツリと経験を断片的に語ったようですが。
外で小用を足すと、つららが出来たよ、って。
マイナス40度、50度なんてきっと有ったのでしょう。
だから「オヤジは寒いってあまり言わなかったなあ、、、。」と。
寒がりの私が経験した一番低い気温はマイナス24度です。
旭川で学生時代を過ごした次女が、学生生活の終わりに
引っ越し作業している時に、インフルエンザで倒れ、
急ぎ千葉から手助けに馳せ参じたと言う訳です。
昼間はマイナス18度、夜はマイナス24度でしたが、
もはや私には、その6度の気温差は全く分からなかったものです。
ピ~~ンと張りつめた、清々しいなんて言ったら叱られそうですが
こちらへ帰って来た時の空気感がまるで違うので、
薄着でしばらくは過ごしたものです。
今回の寒波で、各地で雪の被害などがありません様に、ただ祈るだけです。
皆様もお気をつけてお過ごし下さいね。